やりたいこととやれること

あーーーもう少し吐いちゃう。


身体 1個しかないけど、やりたいことはいっぱいある。(というモードに戻ってきたな、という体感)

まきたい種だって、育てたい企画だって、大切にしたい関係性だって いっぱいある。


が、優先順位をつけねばならん。

心から やりたいこと、私がやらねば誰がやる的なこと、ふつーにやりたいこと、稼ぐためにやること、心のためにやること、色々ある。でも心はやっぱり、大切にしてしまってる。


こないだ 小杉Letterで移動式映画館を見てきて、ますます輝く Y子さんの姿に嬉しみを感じつつ、私の中で まだくすぶって思い出す彼のことを、彼の書いた 映画のコラムを読むことで泣いて 泣いて浄化したりする。

彼はきっと、自分の生い立ちのこともあり、どうも自分を嫌い…というか、好きになれなくて葛藤していたんだなとか。それは 私の中にもある像で、私はそれでも 何とか生にしがみついて 今まだここにいるんだけど、それは 縁とか運とかタイミングとか 色んなものがあったからたまたまいれてたんだろうとか、私が 助けてもらったように、彼にとって 私がそういう存在になれればよかったのにと烏滸がましく思う気持ちや、あの時の私は 自分のことでいっぱいだったという諦めと後悔とか、膿のように湧いてくる。

誰かを悪者にする気はないのに、自分を悪者にしようとする自分がいて、そこを手放して軽くなる。それは 彼がいたことを 忘れるということではなくて、これから出会う誰かの思い詰める気持ちを軽くする私になりたいということで。やっぱり 生きるって 確かに 大変な面もいっぱいあるけど 素敵なことだよと。旅立った今でも、伝えたい。


友達に借りた本を読んでて、ホ・オポノポノというハワイの考え方?の本だが「悩みや苦しみは 潜在意識が自分の記憶を再生することで生まれる。常にゼロ地点思考でいたら それらは手放せる」といったようなことが書かれてる。自分が今生きている世界は、自分がつくってる、確かにそうだと思う。幸せで平和な世界をイメージする力を鍛えたい。それは 暗い部分を見ない、ということではない。喜びだけを見ない、ということでもある。どちらかにフォーカスし過ぎない・耽溺し過ぎないという力を鍛えたい、という感じ。

悲しみは幸せとセットだから。

不器用なりに自由を求めてあがいてる女の日記

明るく、おかしく、逞しく。