幸せについて
今、メインのバイトで働かせていただいているのは、ミニシアター系の映画館や複合商業施設、カフェの運営等をしている会社。
非常にイマドキなのが、しっかり会話をして 個人の融通をきいてくださるところ。
察する、特性を伸ばす、タイミングをはかる、時間をかける、話しを聞く、といった辺りのことを、上の人達が すべての人に実践される姿をみながら、”人を大切にするって 具体的に こういうことなんだろうな” と勉強になる。
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祖父が亡くなるより 先に、叔父が亡くなってしまった。
祖母の妹にあたる人の旦那さんである。
家が近く、父母とも年が近く、気持ちも若い夫婦であったので、家族ぐるみで仲が良かった、縁が深い お家であった。
私が小学生の頃、叔父はバスの運転手をしていた。元々 喋るのが大好きで よく人を笑わせてくれる人だった。面白いおじちゃんと思っていて、なんか好きだった。
だが、私が中学生の頃、叔父は咽頭がんになる。
病院に見舞いに行くと、痩せて 喉にチューブが入り、喋れなくなっている 叔父がいた。
ビックリして泣いた。
「おじちゃん 喋るの大好きなのに…。可哀想だ…。」
私は 当時 演劇部に入っていたので、家に帰ると ”演劇部” と揶揄されてからかわれた。
わざと泣いたわけではないのに。本当にツラいだろうと思ったから泣いてしまったのに。
叔父が一番泣きたいのを我慢してるのに、お前が泣くのか、演劇部 という感じだったかな。笑われると、私は また空気が読めなかったんだろうな と自分を責める。自分の存在?あり様?を、恥ずかしく思う。
後日、「泣いてくれたことが嬉しかった」という言葉と心づけが叔父から届く。
泣いても良かったんだ、と、そんな風に言ってもらえるなんて… と、恐縮と安堵した。
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時は過ぎ。。。
このところ、祖母のデイサービスは、金・日が休み。
顔を突き合わせると喧嘩をする母と祖母だが、祖母を家に1人にしていると、火元の心配や転倒によるケガ、セールス勧誘等、色々と不安が募るため、叔母が 毎週金曜日に面倒をみにきてくれていた。
叔母から よく叔父の近況を聞いた。
喋れるようになる訓練をしたから、今や 普通に人と意思疎通ができるし、2人暮らしだから、顔あわせとったら 毎日 喧嘩ばっかりやと。
だから、同じ話を繰り返す いじくらしい祖母の面倒をみるのも 気晴らしになっていいのだと こちらに気を遣わせないように話してくれる。
叔父はここのところ、週1で病院に通い、自分と同じように手術で喋れなくなってしまった人を対象に、声帯がなくなっても喋れるようになる 教室の先生をしていたそうだ。おじちゃん凄いね、と叔母に言っていた。
だが 今朝、叔母が起きたら、いつもなら自分より早く起きて新聞を読んでいる旦那の姿がない。あれ?おかしいなと思って部屋に行くと、布団の中で冷たくなっていたそうだ。
叔母は その後どうやって 家族や関係各位に連絡をとったんだろう。
今は、お葬式・お通夜等で人が沢山いるけど、色々なことが落ち着いたら、叔母はどれほどの寂しさに飲まれてしまうだろう。
関係性は親戚だけど、家族のような存在の叔母だ。
バイト先に 叔母の旦那さんが亡くなったから 早退させて欲しいのだというと 融通をきいてもらえた。また ありがたくて 泣ける。
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今月、そういうことが 不思議と続いている。
嬉しいことを嬉しいと思い、悲しいことを悲しいと思いたい。
複雑に入り組んだ感情もあるけど、そういう 心の動きをしっかりと味わえるのも幸せの一つな気がする。。
でも 悲しみは、一人で受け止めるには大き過ぎるから、悲しいねって、抱きしめたい。
悲しいことがあっても 心身共に 健康であるためには、泣くだけじゃ 足りない気がする。
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