コロナについて 徒然思うこと
KYには生きづらい世の中である
富山では今日8/16 からステージ3の措置が施行となり、県外移動はおろか、外出・食事もNGという おふれが出た。
「お願いレベルのおふれ」というのは、結構 言われる側の心をかき乱すものがある。「経済的な保証はできんけど」・「自己責任で頼むよ」・「衆人環視で互いを牽制しあってくれ」って言外のメッセージを感じる。。。KYには 生きづらいぜ!!←
最近、身近な コロナパターン
1.ワクチン接種し、県外に住む家族に会うことを我慢 等、周囲の人と歩みを合わせて とりあえずガイドラインを遵守している人がいる
2.気晴らしで出かけたら、ショッピングセンターや観光地に県外ナンバーの車がわんさか停まっている等、自分が守っているパターンを無視する人がいることを知る。
3.自分がしている我慢って一体何だろう? 何が正解なんだろう? と モヤモヤする。(だが世界は回り続けており、常に 選択を急かされ続けている。)
4.色んな人がいるが 引き続き自粛する、自分と違う選択をした他人を攻撃しはじめる、色んな人がいるが、様子を見ながら 自分のやりたいことをする 等…
コロナ期の”寛容”について
大体、自分の周りには自分と似たような考えの人が集まるという話しを聞く。それでいうと、私の周りは比較的 寛容な人が多いと思う。寛容というのは それぞれの選択を尊重することを是として、自分の意見と違うことを 否定したり 押し付けたりはしないということ。他人に寛容な人も、不寛容な姿勢を貫く人も、「そういう考えもあるよね」と受け止める。ワクチンに関しても 打ってる人も 打ってない人もいるけれど、それぞれがそれぞれの考えを持って選択しているから、全部 肯定的に見る。それぞれ立場があるし、色んな考え方・結論があるよね、という感じ。(モヤモヤするけど立場的に強制だから打つ、とか、申し訳ないけど○○だから打たない、とかね。)
知らないうちに”差別”したくない
最近 気になっているのは「打とうが打たまいが、コロナの陽性者ないし感染者になる可能性はあるので、自分がなった時の気の持ち方と、自分の近しい人がそうなった時の接し方の予習をしたい」ということ。”アンチ差別者”的な立ち位置でいたいとは 常に思っているけど、気づかないうちに 人を傷つける言葉を放っているかもしれない…。自己主張が強いので 間違うこともあるだろうけど、人と関わることは やっぱり素敵なことだと思うから、相手に致命的な傷を負わせるような間違いはしたくない。そして そろそろ、自分や 自分の親しい/大事な人が、いつ そうなってもおかしくないフェーズに入ってきてるように思うから、漠然と不安を感じてる。
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