「成りにいく」のと「そう扱ってもらう」のと
稽古の現場で、演出にプロ扱いされていて、30年以上やってる人に「俺ら」という言葉を使われる中、いやいやいや 私そんなに経験ないしと 尻込みする気持ちがあるが、私が今の場所で 求められているのは自己卑下ではないと感じる。市民劇はみんな仕事をしながら関わっていて 、圧倒的に引っ張っていく人が足りないから、そっち側の人間として 場の熱を維持する役に徹した方が、最終”いい芝居”に貢献できるだろうな と思う。
社会と同じだよな。たとえば 役職のある人が最初から役職であったわけではなく、そのポストをもらってそのポストの仕事をこなすうちに だんだんそれらしくなっていくように、自分が望むもの、他者からそう扱われること、両輪が同時進行で起こって、その人がその人として成立していくんだ。。
大きな流れに抗うことは難しいから、自分がどうしたいのかは自分がきちんと自分に聞いてワガママにならないといけない。でも 他者との関係性の中に生きているから、すべてが自分の思い通りになるわけではない。そんな理想と現実の狭間で、自分はどうありたいか。
正直、演り逃げポジションの私に 肝のシーンを担う役を任せられたのが 気まずい気持ちはあったが、要は”荒らし”なわけだから、荒らしとして、存分に 全体に張り合いのある雰囲気(負けてたまるか!切磋琢磨、的な)を作るところに 一役買えれば それでいいのではなかろうか?と思う。責任を取り続けることができない立場として、今 果たせることはそういうことしかないのかも、とか。立場的に一番 フラットに現場を見れるから、おいしいっちゃおいしいポジションだしね。しがらみのなさ って良いわ。。
友達はめちゃめちゃいい人で、「私が見たいと言ったから出てくれるのだし、忙しかったら 芝居の期間は 頼んでる仕事はそっちのけで 芝居に全振りしてくれて構わないし、チケット売りも協力するよ!」と言ってくれている。稽古をご一緒してる皆さんからも「後から思えば あいつ居てよかったな」と思ってもらえる人になれるよう、ありのままで対峙できたらいいな。
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