リチュアルと音楽

プレイバックシアターの必修科目で「リチュアルと音楽」という授業に参加した。同じ授業に参加していた仲間の中に、ウクライナの3人の女性がいたのだが 本当に素敵な人たちだった。

私は感受性が強過ぎるタイプなので、現実社会は生きづらい。どうしても、周り人たちに擬態して生きてる感覚になる。けど、プレイバックシアターの場だと感受性の強さが良い方向に作用するようで、非常に居心地が良い。それは プレイバックシアターが主観的事実を大事にする手法の演劇だからかもしれない と感じている。現実では 声の大きい人の主観的事実が罷り通ることが多いけど、プレイバックシアターの場ではテラーとして手を挙げて自分の話しをする勇気さえあれば、思慮深くて声の小さな人の主観的事実もきちんとその場で共有される。私は声の大きい人の主観的事実に手放しで迎合するのが好きじゃないし、違うと思ったら 違うと言いたい派で、みんな 色んな思いがあるよね、と普段から思っているから 物凄く 自然に受け止められる。

3日間の授業の中で ウクライナ女性の1人が語ってくれたストーリーがまだ尾を引いていて、帰ってきてからウクライナの歌を覚えようと「赤いカリーナは草原に」と「ウクライナ国歌」をとりあえずヘビロテで聞いている。Duolingoにもウクライナ語を入れた。

私の心を強く揺さぶった ウクライナ女性のストーリーは、とてもシンプルなものだ。

「私の生まれた場所は、目前に黒海と空が広がる美しいところ。でも戦争が始まって、私は(私の住むオデッサ市と姉妹都市である)横浜に避難してきた。避難先の横浜は、沢山の背の高いビルや建物に囲まれた場所。みんな親切だけれど、言葉も違うし、故郷とは全然違う。心細い思いでいた時、遠くに見える景色の中に、本当に小さいけれど、海があるのを発見した時があった。穏やかな感情の時も、激しい感情の時も、自分は海と共に生きてきたから海には特別な思いがある。海は横浜にも繋がっているんだ、と思い、とても嬉しかった。」

そんなお話しだったんだが、とにかく 私の胸を打っていて、受講内容のまとめも記憶があるうちにしなきゃーとは思ってるのに、ウクライナの方を 色々 調べちゃう。

ウクライナ×ロシア問題について、私は「人命最優先でしょ!」と思ってしまうから、「もうとにかく どっちが勝つとか負けるとかいいから 市民を巻き込まないで、戦争を終わらせて」と思ってしまうけれど、「ウクライナの人達にとっては、負けたら自分達が大切に愛してきた土地や文化や言語などを 失う可能性があるんだ。愛する土地やそこでの思い出、ウクライナ人の文化・習性を手放し、そこには二度と戻れなくなる可能性があるんだ」と思ったら どっちが勝っても負けても…という思いを言葉にすることは「ウクライナの人達が愛してる文化や土地や言語なんて どうでもいいじゃない。生きてる方が大事なんだから」という冷たい突き放しにならないか?と思ったのだ。

前 NHKか何かで、ウクライナの女性兵士の特集をしていて、母が武器をとって戦地に行くことを登校拒否気味になっている娘が「どうして私がこんなになっているのに 戦地に行くの?行かないでよ!命の方が大事じゃない!」と訴え、それでも母は娘を愛していることを何度も伝えて 戦地で時に激しく涙をながしながら戦っている、というのを見て、私は娘の気持ちのに共感してしまうなぁ…と思っていた。だけど 今回、その時の 母側の気持ちをすごく感じた気になった。土地と言葉や文化は密接に結びついていて、今 放棄したら、それらは なくなってしまうかもしれないのだ。それでも、個人では大きな流れを止めることはできないから、目の前の出来事にどう向き合い、どう対処するか、選択と行動を繰り返すだけで。あり方を示すことが大事なのだ。

北海道 アイヌの知里幸恵さんの本を読んだ時も、同化政策を進めると(指示を出す上層部は生き延びるために降伏しろ、迎合すれば命は保証する という感じなのかもしれんが)末端の現場では差別や暴力が当然の顔をして行使される。負けたら、そんな未来を引き寄せることを許してしまうのだ。自分の子ども達に伝え・繋いでいきたいものを手放してしまうのだ。ソ連、ロシア、ウクライナ、それぞれが大事にしているものの エッセンスを知りたい。

不器用なりに自由を求めてあがいてる女の日記

明るく、おかしく、逞しく。